ガルニモ

「あなたはワクワクするために生まれた」的なタイトルの自己啓発本があるけど、私の人生目標の中に「ワクワクしたい」が無いので読んだことがない。

ネコ

我が自己啓発

2016年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

今回は正月なので自己啓発的なことを書こうと思う。「自己啓発って何?」っていう人もいると思うかもしれないけど、例えば「つまらない人生は捨てよう!君はワクワクするために生まれた」とか「明日死ぬとして、君は今日もそうやって生きていくのか?」的な文章だよ。やっぱり一年の始まりというのはこういう自己啓発的な文章を読んで「今年一年頑張るぞ!」とやる気を出し、2月くらいに「ちょっとやる気がなくなってきたけど、まだ一年始まったばかり!頑張るぞ!」とだんだんとやる気をなくし、3月くらいにワクワクとか明日死ぬとかどうでも良くなっていき、その後普通に一年を過ごす。そうやって生きていくべきなんですよ、人間は。

自己啓発その1「自己中になれ」

ジコチューになりなさい。自分中心に世界を回しなさい。あなたが神だ。え?私は他人に迷惑をかけたくないのでジコチューにはなりたくない?

宗教を信じている人は無宗教の人を信じられないらしい。いわく、「神を信じないなら、なぜ犯罪を犯さないのだ?」いや、神を信じなくても犯罪を犯さないよ。人間をなめすぎだよ。

そして、自己中じゃない人は自己中の人を信じられないらしい。いわく、「自己中の人って他人に迷惑かけてばかりなんでしょ?」いや、他人に迷惑かけ無くても自己中になれるよ。

例えば自己中じゃない人は皆で何かのきっかけで昼ごはん食べることにした時「和食にするー?洋食にスルー?チュウカ二スルー?ドウスルー?ワタシドコデモイイヨー?ドウスルー?」決まらない店。過ぎてゆく時間。滅び行く文明社会。皆決めないのだ。皆自分の希望を言わないのだ。なぜなら、他人に迷惑をかけたくないから……ではない。責任を取りたくないからだ。自分が店を決めた時、その店がまずかったり、汚かったりしたら、なんか自分のせいな気がして嫌だからだ。

自己中じゃない人は、他人に迷惑をかけたくないんじゃなくて、自分で責任を取りたくないんだ。確かに責任は取りたくない。誰だって責任は取りたくないんだ。結果、責任を取りたくない人は何も発言せず、責任を取る覚悟の自己中が発言するんだ。結果、世の中は自己中が動かしているんだ。

「なんかトンネルとか作ったほうが良くない?」って自己中が言った結果、そこにトンネルができ、「お前らドロドロの土地どうにかして東京(江戸)作れよ」って自己中が言った結果、都市ができ、「戦争とかもう嫌やわー」って自己中が言った結果、日本は戦争を放棄したのだ。多分。

でも、あなた自身は別にトンネルがあってもなくてもどっちでも良かったと思うし、東京(江戸)がドロドロだろうが都市だろうがどっちでも良かったと思うし、戦争の話も(少なくとも今は)あんまりあなたに関係ないと思う。なんだ。じゃあ、あんまり自己中じゃなくてもいいじゃない。私はあんまり世界をどうこうしたいとかいう欲望はないもの。そう思っているのでしょう。確かに、世界をデザインすることに関しては私もどうでも良いと思う、しかし、自己中で無い人の最大のリスクは「自分の人生についてすら自己中になれない(自分の意見を言わない/自分で責任を取ろうとしない)」ことだ。結果、この人は「他人がデザインした人生」を生きることになる。自分の人生を生きるのに「他人がデザインした人生」を生きるとはどういうことだろう?つまり、「誰かに言われたままの人生を送る」ということだ。

「この学校がいいよ」と言われ行きたくもない学校に進学し、「この会社で良いじゃない」と言われ行きたくもない会社に入社し、「この人素敵じゃない」と言われ好きでもない人と結婚し、「子供は二人欲しいよね」と言われ作りたくない子供を作り、外からは一見何も問題ない人生を送ったが、本人は自分の人生に違和感しか無く「どこで人生を間違ったんだろう」と思いながら死ぬのだ。更にややこしいのは、一見成功した人生に見えるために「他人がデザインした人生」を生きた本人すら「自分は恵まれた人生を送ってるのに、どうして幸せを感じないんだろう」とか思うことだ。

自分の人生を「他人がデザインした人生」じゃなくてきちんと「自分がデザインした人生」を送るために、どうすればいいのか。それは、少なくとも自分の人生に関しては自己中にならなければならない、ということだ。

例えばここに、ある誠実な男がいたとしよう。彼には夢があった。それは「SMクラブに通いたい」ということだ。しかし、彼にはSMクラブに通う勇気も、きっかけもなかった。そこで彼は考えた。「会社で頑張っていれば、同僚が何かのきっかけでSMクラブに誘ってくれたりするだろう」。

結果、彼は会社で頑張った。自分の仕事はもちろんきちんとこなし、他人が困っていたら、積極的に助けた。もちろん同僚たちは彼に感謝し、逆に彼が困っているときは皆が彼を助けた。一人は皆のために。皆は一人のために。やがて彼はその功績が認められ、順調に昇進していく。また、その誠実な働きぶりに惚れた同僚の女性と結婚も出来た。子供も男の子一人、女の子一人ができた。やがて彼はその働きぶりが認められ、遂に社長となる。彼の快進撃は止まらない。中小企業だったその会社を、社長になった彼は一部上場の大企業まで押し上げる。更に彼は定年までにその企業を世界有数のグローバル企業まで押し上げてから引退する。彼の老後は悠々自適だ。お金も豊富にあるし、子どもたちも無事に結婚し、孫もたくさん生まれ、彼は皆に見守られて幸福のうちにその生涯を閉じるのだ。

天国へ行った彼は、神様にマジギレしながら言うのだ。「私はあんなに世のため人のために尽くしたのに、なんでSMクラブへ連れて行ってくれなかったんですか!!」。神様は応える。「えー。SMクラブに行きたいとか知らなかったし。言ってよ!もしくは自分で行けよ!」

お分かりだろうか?彼は「世間一般で言われる幸せな人生」を送っただけで、「彼自身が幸せを感じる人生」は送っていないのだ。だってSMクラブに通えていないんだもの。美女にムチで叩かれていないんだもの。美女にロウソクであぶられていないんだもの。彼はどんなに夢見たことだろう。SMクラブに通うことを。彼はただただ美女にいじめられたいだけだったのに。だから彼は頑張ったのに。皆の為に頑張ったのに。誠実だったのに。努力家だったのに。有能だったのに。なのに天は彼をSMクラブへ連れて行ってはくれなかったのだ。

彼は、「誠実」だったし、「努力家」だったし、「有能」だったけど、結局「他人がデザインした人生」を送ったのだ。つまり、自分が幸せになるには、「誠実」は重要な要素ではなく、「努力」も重要な要素ではなく、「有能」も重要な要素ではない。じゃあ、大事なのはなにか?自分の人生に対して自己中になることだ。ユダヤにこんな言葉がある。「私が私自身を幸福にしないとして、一体誰が私を幸福にしてくれるというのだろう」。

だから、自分の人生において幸福を与える優先順位は

  1. 自分に幸福を与える
  2. 自分に身近な人に幸福を与える
  3. 自分から遠い人に幸福を与える

の順番で良いと思う。たまに、自分の幸福を犠牲にして他人を幸福にする、っていう人がいるけど、私はそれは間違っていると思う。自分自身すら幸福に出来ない人間に他人を幸福に出来るとは思えない。

例えばあなたが自分の幸福を犠牲にして、とある男女を結びつけたとしよう。自分のおかげで男女が結婚したのだ。男女はもちろん、あなたに感謝し、あなたに恩を感じる。しかし、あなたは自身の幸福を犠牲にしたので、「不幸な人生」を送り始める。それを見て、あなたをに恩を感じてる男女は、おりを見て、あなたを手伝ったり、助けたり、援助したりするのだ……。気を使わせてるやないかい!

本当はこの男女は幸福の絶好調で二人だけの世界に没入したいさ!でも、恩人が不幸なんだもの!そりゃ気を使うさ!むしろ、「あの人が不幸なのは私達のせい?」とか心がモヤモヤするわ!素直に幸福を喜べないさ!それは全て!てめぇが自分勝手に自分の幸福を犠牲にして他人を幸せにしたからさ!死ね!

あなたを本当に幸福に出来るのは、あなた自身しかいないのだ。あなた自身の人生に対して自己中になりなさい。

自己啓発その2「クズになれ」

クズになれ、とは、あなたの魂の位置をひとつ下位に置きなさい、ということだ。例えばあなたは「できるだけ皆に優しくないといけない」とか「限界まで努力しないといけない」とか……ようするに、お前ら立派じゃん?これ見てる皆ってどうせそこそこ良い人なんでしょ?私も学生の頃は、実際に良い人だったかどうかは分からないけど、少なくとも良い人であろうと努力はしてました。しかし、私のうっすーい人生経験を経た今、思う。そこまで人間は良い人であったり、立派であったりする必要はないな、と。

人間が他人からどう評価されるか、っていうのはその人がどれだけ優しいか、とか、どれだけ努力したか、ってことじゃない。実際にその人が何をなしたか、ってことだ。外からその人がどう見えてるか。目に見えてどんな結果を残してるか、だ。

例えばここに重罪人がいるとしよう。この人は裁判で死刑になるか否かの瀬戸際だ。その重罪人は裁判所で自分が過去、どんなに極悪非道であり、自分が現在どれだけそのことを悔いているのかを泣きながら懺悔するのだ。それに心を打たれた陪審員は、死刑ではない判決を選択するのだ。

ただ、問題はこの重罪人が本当に反省しているか否かは誰にも分からないのだ。例えば、本当に罪を後悔している可能性ももちろんあるけども、実は重罪人は「ここで反省している演技をすれば、少なくとも死刑は免れるぞ」という計算のもと、反省しているような演技をしているかもしれないのだ。

でも、反省する演技すら示さない重罪人は確実に死刑になるのだ。ここで「外から見て」「反省しているように見える」から人は「目に見える結果で判断し」その人が実際に反省しているか否かは誰にも分からないにも関わらず、死刑以外の刑に処すのだ。

例えば「他人に良い人と見られたいから、他人が見ている時だけ老人に席を譲る男A」と「心は優しいが、老人に声をかける勇気がないので、いつも老人に席を譲りたいとは思うが譲れず、後で一人で後悔にみまわれる男B」がいたとしよう。

これは、文章で見ると、どう考えてもBのほうが優しい良い奴だが、実際に存在したとしたら、いいやつはAだと全員が判断する。だって、Aは実際に何度か老人に席を譲ったことがあるけど、Bは一度も老人に席を譲ったことがないのだ。

人間は他人を、そいつが良い奴かどうか、ではなく何をなしたかで判断するのだ。例えばクズ野郎でも偉大なことをなしたら、偉大なことをした人、として皆に認知される。クズ野郎でも。そして、逆に性格が良い奴過ぎて歴史に名を残した人、っていないでしょ?「マルクス・レニウスは、あまりに性格がいいやつだったので、人々から『良い奴』と呼ばれていた」とか歴史の教科書に載ってるの見たことないでしょ?

「いいや!世の中には貧困を救う世界的グループを立ち上げた偉人がいる!」「世の中には戦争に反対する組織を立ち上げた偉人がいる!」分かる!でも、その人たちは「貧困を救うグループを立ち上げた」ことを評価されたり「戦争に反対する組織を立ち上げた」ことが評価されただけで、うがった見方をすれば「皆に良い人と見られたいから貧困を救う世界的組織を作ろう」と思って作った可能性もゼロではないのだ。いや、こんなうがった見方をする私もどうかと思うけど!真実なんて誰にも分からないのだ。

典型的な例としてスティーブ・ジョブズがいると思う。アップルの創業者、皆のカリスマ。そうそう、あの人。

スティーブ・ジョブズのエピソードの一つとして「他人のアイデアを聞いた時、その場ではその人のアイデアを否定したりするが、しばらく後、自分で考えたアイデアとしてその人のアイデアを披露し、自分の手柄とする」というのがある。これは、ジョブズ信望者でも知っているエピソードだと思う。

冷静に考えれば、このエピソード、クズじゃない?いや、分かるよ。「確かに、ジョブズはそのようなマイナス面もあったけど、アップルの創業、i-Podという発想、iPhoneという発想という偉大なことを成し遂げた。欠点を補ってなお余りある」っていうんでしょ?要するに偉大なことをしたクズでしょ?世の皆はその人を性格で判断したのではなく、何をなしたか、目に見える結果で判断したのだ。

いや、分かる。まだジョブズ信望者は私の主張に納得行っていない。ここで私の話を補強してくれるのが、去年話題になったテレビドラマ『下町ロケット』の「ガウディ編」だ。『下町ロケット』というテレビドラマは、技術者を主題にすえたドラマで「技術者が誠実に製品をつくりあげていれば、中小企業だって世界と戦えるんだ!」っていうのがテーマだ。そして「ガウディ編」は人工心臓がテーマで、悪い教授が、若くて有能な教授の手柄を横取りして自分の手柄としてしまう、という話がある。若い教授はなんとか抵抗したいが、悪い教授は地位も名誉もあるし、どうにも若い教授は太刀打ちできないのだ。

『下町ロケット』の「ガウディ編」を見ていた皆は思ったはずだ。「くっそー、悪い教授め!天罰が下ればいいのに!」

で、この悪い教授とスティーブ・ジョブズは何が違うの?二人とも、地位と名誉があり、そして他人の手柄を自分の手柄としたんでしょ?どこが違うの?

で、私が言いたいのは「だから皆クズ野郎になって、他人の手柄を盗み!ピンポンダッシュしまくり!盗んだバイクで走りだそうぜ!」ってことじゃない。積極的にマイナスのことしようぜ!ってことじゃなくて、「無理してプラスのこと(世のため人のためになること)をしなくてもいいよ」ってことだ。

例えばあなたが神様級に良い奴だとしよう。もう神にしか見えない。あなたは老人に電車で席を譲るだろう。だってもうあなた神様級に良い奴だから。でも、ある時、ちょっとタイミングがずれて目の前にもうフラフラの老人がいるのにちょっと席を譲れなかったとしよう。あなたは後で後悔する。「どうして自分はあの時ちょっと無理してでも席を譲らなかったんだろう」。例えば目の前である人がゴミをポイ捨てしたとしよう、あなたは神様級にいいやつなので、ちょっと考える「ゴミを拾ってゴミ箱に捨てるべきか?いや、それをもしゴミをポイ捨てした人に見られたら嫌味と受け取られるかもしれない」結果、あなたは特に何も行動しない、という選択をした。後日、後悔するのだ。「ゴミ捨てるべきだったんじゃね?」

生きづらいわ!死ぬわ!お前マジ良い奴過ぎて死ぬぞ!だから、自分を「クズ野郎」と仮定して、気が向いた時に良い事をして、気が向かなけりゃ良い事をしない、程度にしておきなさい。理由として「だって私はクズだから」と思っておきなさい。「無理して良いことをしない」という意味で、クズ野郎でいなさい。

で、素直すぎて、かつ考え過ぎな奴は「じゃあ私は自分の心に負担をかけないために、クズとして良いことをしない方がいいのかな」とか思うのだ。アホか!クズをなめるな!クズのまま老人に席を譲りなさい。クズのまま努力しなさい。クズのまま偉大なことをしなさい。クズが良いことをしてはいけないなんて誰が決めたんだ。要は、自分がストレスを感じるくらいに良い人や立派な人になりすぎるな、ってことです。で、良い人過ぎたり立派過ぎたりする人はその場合の自分への言い訳が思いつかないので、だから私があなたのために今、その言い訳を作ってあげている。貴様はクズ。

つまり、私が今回言いたかったことは「自己中のクズになれ」ってことだから、皆さんも今年の目標はぜひ「自己中のクズ」を目指してください。油断すると2月くらいにやる気がなくなり、3月くらいにはもう「他人の為に生きる善人」になるから気をつけろ!