人生の難易度について
世の中は大人になったら自立すべき……つまり、一人で生きていく能力を持って当たり前だという説が主流である。
でも、私はそもそも「人間」という生物は全員欠点がある……つまり世の中のすべての人間はダメ人間だと思ってる。そして家族というのはダメ人間同士が欠点を補いあい支えあう小さな単位であり、もう少し単位を大きくしていくと、村になり、街になり、国になると思ってる。つまり国とはダメ人間たちが支えあって生きているグループだと思ってる。
ここで私が話したいのは「人間は自立して一人で生きていく能力を持つべき」と「人間はそもそもダメ人間なのだから、ダメ人間同士欠点を補いあって支えあって生きていくべき」のどちらの考え方が正しいかという話ではなく、どちらの考え方の方が生きやすいかという話をしたい。
「人間は自立して一人で生きていく能力を持つべき」という考え方を持つと、一人で生きていくための能力を身につけなければならず、人生の難易度が上がる。この人の中では「当たり前にできないといけない」の難易度が高い。
「人間はそもそもダメ人間なのだから、ダメ人間同士欠点を補いあって支えあって生きていくべき」という考え方を持つと、もちろん一人でできることは一人でやるけど、分からないことや出来ないことは努力で無理やりどうにかせずに人に頼ることになる。だってそもそも世の中はダメ人間たちが支えあって生きていくものだから。だから人生の難易度はそこまで高くない。この人の中では「当たり前にできないといけない」の難易度は低い。
つまり、世の中をどう解釈するか、理解するか、認知するかで人生の難易度が簡単になったり難しくなったりするのではないかと思う。
「世の中をどう解釈するか、理解するか、認知するか」は「世の中にどういう偏見を持つか」と言い換えてもいい。
むちゃくちゃ生きづらさを感じている人は、そもそもむちゃくちゃ生きづらくなるような偏見を世の中に対して持っているのではないだろうか。
「世界をこう解釈するのが正解」というものはそもそも存在しない。だってみんな学校で「世界をこう解釈しましょう」って習ったことないでしょ?世界の解釈の仕方は多分宗教が教えているのだと思うけど、私たちは生きやすい人生を送りたいだけで、宗教を信じたいわけではない。だから世界をどう解釈するかは個々人の自由にゆだねられている。
上の例では「人生の難易度」つまり「生きやすさ」「生きづらさ」の話をしたけど、例えば「自分は運がいいと感じる」「自分は運が悪いと感じる」とか「努力を続けられる」「すぐあきらめる」とかも、「運がいいと感じやすい解釈」とか「運が悪いと感じやすい解釈」とか「努力をし続けられる解釈」とか「すぐあきらめてしまう解釈」というのがある気がする。
みんな、これらの問題は「その人の性格によって生きやすいとか生きづらいとか運がいいと感じやすいとかすぐあきらめるとかが決まる」と思ってるかもしれないけど、私個人的には「性格」よりも「この世界に対する理解の仕方、認知の仕方、解釈の仕方」の方が影響があると思っていて、「運が良い」という解釈がしやすい世の中への理解の仕方を「運が悪い」と感じやすい人に教えたら運が良く感じやすくなったり、「すぐあきらめる人」に「努力をし続けられる」考え方を教えれば努力し続けられるようになるんじゃないかと思ってる。
ただ、「運が良いと感じやすくする」ためとか「努力し続けられるようにする」ためには具体的にどう世界を解釈すれば良いかはまだ分からないけど。