何事かを成すのは手段の話
起業家になる方法は、起業をする手段を知っているか否かであって、その人が立派かどうかは関係ないのだ。
政治家になる方法は、政治を行う手段を知っているか否かであって、その人が立派かどうかは関係ないのだ。
でも、人が何かを目指すとき、そこに「立派な」が入る。「立派な起業家になるのだ」「立派な政治家になるのだ」。これは、「立派になること」と「起業家になること/政治家になること」を同時に目指すから難しいのではないだろうか。とりあえず「起業家/政治家」になってからその後、立派になりたければ立派になればいいのではないだろうか。
パナソニックの創業者やトヨタの創業者は、起業家たちからカリスマとして崇められている。でも、パナソニックの創業者やトヨタの創業者にはめっちゃ愛人がいた。というか、彼らに限らず、ああいう戦後の偉大な起業家には、結構ゴロゴロ愛人がいる。でも、愛人がいることで、彼らの業績が貶されるわけではない。でも、愛人がいるということは、立派な人間というわけではない。つまり彼らは、彼らが経営者としてとったあらゆる手段が素晴らしかったのであり、彼らが立派だったわけではない。政治家にだって愛人があるという話はよく聞くが、愛人がいるかどうかと政治家としての能力が合うかどうかは関係がない。逆に、清廉潔白すぎることが優秀な政治家として大成するのにマイナスに働くこともあるだろう。
例えば私達は日本語の読み書きができるが、私達が日本語の読み書きができるのは立派だからではない。日本語の読み書きをする手段を知っているからだ。学校で習ったからだ。
でも、世界のどこかの学校が無い国では「文字の読み書きができる」なんていう立派な事は、立派な人しかできない、と勘違いしているかもしれない。文字の読み書きができない人にとって「文字の読み書き」はそれ程高等で知的な事に感じるからだ。
例えばあなたの友達に、自分よりも数学が得意な子がいたとしよう。あなたは彼に「彼は立派だな」と思うだろうか?思わないだろう。でも、別にダメ人間とも思わないだろう。普通である。「むしろ、国語は私のほうが得意だし」とか思ったりするだろう。
でも、世界のどこかの算数を習わない人たちは「掛け算できるよ」って人に対して「立派な人だ」と勘違いするだろう。だって、数学できない人にとって、数学できるというのは知的で高等なことに感じるからだ。
だから、私は内心、「実は起業家になる方法も、政治家になる方法も、学校で皆で習えば結構皆普通にできるようになるんじゃないだろうか。学習可能なんじゃないだろうか」って思ってる。もちろん、得意・不得意は出るかもしれないけど、「最低限コンビニ経営はできるわ」くらいにはなるんじゃないだろうか。
つまり、学習さえすれば「へー、あいつグローバル展開するんだ。俺は地元で旅館経営するのがいっぱいいっぱいだわ」とか「へー、あいつ首相になったんだ。俺、今度新党立ち上げるつもりだから、首相狙えるのはまだ先だわ」くらいなことになるのでは。つまり、「確かにあいつ凄いけど、単純に苦手科目得意科目の違いだからなー」程度なんじゃないかな。
というか、この世のあらゆる難しいとされていることは、学校で習いさえすれば、皆学習可能なんじゃないだろうかと思ってる。学校で教わらないから「あんな難しいことは立派な人しかできない」と私達が勝手に思うだけで。
でも、残念ながら国はケチで学校で教えてくれないので、私は本屋で本を買ってお金持ちになる方法を勉強するのだ。最近資産が3000万円になったよ。やったね。私はダメ人間だけど、やっぱりお金持ちになる方法も「立派か否か」は関係なく、「手段を学習してるかしてないか」の違いしか無いと思う。