目的の話
最近あった話や考えていることを色々話そう。
行きつけの病院がありましてね。「どう?今晩やってる?」って言いながら病院に入るんだけど、そこの先生に「お金持ちになって会社辞めて、ぷらぷら生きるわ」っていう話をしたら、「それは社会の役に立つの?」というよく分からない回答をされた。話をよく聞くと、どうやら先生は「人間は、他人のため、社会のために生きるべき」という考え方の持ち主らしい。なるほど、それで病院の先生をやっているんですね。危うく先生のお説教が始まる流れになりそうでしたが「『人間は他人のため、社会のために生きるべき』という価値観は先生の価値観であって、私の価値観ではない。私の価値観では、人間は自分のために生きていいと思っている」という『みんな違って、みんな良い』説で反論をしたところ、なんとか納得していただけました。危なかった。なんで私が先生に説教される流れになるんだ。私を攻撃するんじゃなくて私を癒やせよ。病院やんけ。
先生と話していて思ったのは、「人は他人のため、社会のために生きるべき」派の人は、「人は自分のために生きていい」派の人に対して、「きっとこいつは自分勝手に生きて、他人や社会に迷惑をかける生き方をするのだろう」というある種の思い込みがあるということだ。いやいや、別に他人に迷惑をかけなくても、自分のために生きることはできるわ。例えば宗教を信じる人は無宗教の人に偏見を持っている。「神様を信じていない?じゃあ、きっと犯罪を犯しても地獄に落ちると思っていないのだから、犯罪ばかりするのだろう」。私達、あまり神様を信じていない日本人は思うでしょう。「いや、神様を信じてなくても、べつに積極的に罪を犯そうとか思わないよ。『無宗教』は『犯罪を犯す』と同義じゃないよ」と。それと同じ理論です。「『自分のために生きる』は『他人に迷惑をかけながら生きる』と同義じゃないよ」。
そもそも「人は、他人や社会のために生きるべき」という考え方を持つ人と、「人は自分のために生きるべき」という考え方を持つ人がいるのはなぜだろう?人間が最初に接する社会とは「学校」だと思う。つまり、その人にとって「学校」がどのような存在だったかで、異なる考え方を持つのだと思う。ずばり「学校での生活が楽しかった人が『人は、他人や社会のために生きるべき』という考え方を持つ」のであり、「学校での生活が辛かった人が『人は、自分のために生きるべき』という考え方を持つ」と見た。
学校(社会)生活が楽しかった人は「社会は楽しい。辛かったり困ったことがあっても、社会が助けてくれるから」という経験を得て、「人は他人や社会のために生きるべき」という考えを持つのでしょう。学校(社会)生活が辛かった人は「社会は辛い。辛かったり困ったことがあっても、社会はあまり私を助けてくれない。社会は信頼できない。自分のことは自分でどうにかするしかない」という経験を得て、「人は自分のために生きるべき」という考えを持つのでしょう。つまり、なんとなく「『自分のために生きる』とかいうヤツは、子供の頃から甘やかされて育って、ワガママばかり言って、他人の気持ちも考えずに生きてきたヤツなんだろうな」という偏見があるかもしれないけど、実はそうじゃなくて「人生がそこそこ辛くて、それを社会があまり助けてくれなくて、もはや自分で自分を助けないと、基本的には誰も助けてくれない。社会はあまりあてにならない」という経験を持った人が「人は自分のために生きるべき」という考えになるんだと思う。少なくとも私はそうです。
人は見たいものを見ているの話。
例えば、目の前に同じ内容の情報があるのに、その情報を見た人たち皆が同じ結論を出すわけではない。例えば、ある人は「自民党良いよね」っていう結論を出すけど、同じ情報を見た別の人は「自民党良くないね」っていう結論を出したりする。「放射能とかもう問題なくない?」っていう結論を出す人もいれば「いや、放射能問題はまだある」っていう結論を出す人もいる。「北朝鮮と戦争起きそうだしヤバイね」っていう結論を出す人もいれば、「北朝鮮の問題は大したことないわ」っていう結論を出す人もいる。
なぜ私達は同じような情報を見て、異なる結論を出すのか。なぜなら私達は無意識に、事前に結論を持っているからだ。情報を集めてから結論を出すのではなく、まず自分の中で勝手に結論を出して、情報を集めるときは、その結論に合致する情報だけを取捨選択するからだ。私達は事前にいろいろな「思い込み」があり、世界をあるがままの姿で見ることができない。
例えば私達は「道徳的に正しくあれば、その人はいつか幸せになれる」という思い込みがある。でも、ブラック企業で働いて会社をやめられずに自殺するような人は「道徳的に正しくあろう」と思っている人こそが自殺してしまうのだと思う。道徳的考えにもとづけば「辛いところから簡単に逃げてはいけない」「辛くても頑張っていればいつか良いことがある」「(会社をやめることで)人に迷惑をかけてはいけない」ココらへんの考えがもとで、人は会社をやめられず、そして自殺したりするのだ。ブラック企業をすぐにやめられる人はきっと「人生適当に生きよう」っていう考え方の持ち主だ。「会社辞めてもどうにかなるでしょ」っていう人が、ブラック企業をすぐにやめられる。でも、私達の事前の思い込みでは「人生適当に生きよう」は間違った考えのはずで、彼は不幸になるはずだ。でも、彼は生き延びられる。
例えば「神様を信じる人は、人生を幸せに生きられる」という思い込みがある。私達日本人は神様をあまり信じていないけど、でも一応神様を信じる気持ちのことはなんとなく理解できるつもりである。少なくとも私は理解できるつもりだった。でも、とある海外のニュースを見て「神様を信じている人って、私達が思っている以上に、エグいほどガチなんだな」って思った。そのニュースとは「オーストラリアのイスラム教徒の女性が、イスラム国のために、子供を捨ててイスラム国に渡った」というニュースだ。本当に神様を信じている人は、神様のためなら自分の子供を捨てることができるのだ。
私はもともと「道徳的に正しい生き方をすれば人は幸せに生きられる」という考え方だったけど、その頃から疑問に思っていたことが「なぜ悪いことをする人は、そこそこ成功しているのだろう」ということだ。例えば、女を弄ぶ悪い男がいたとして、「道徳的に正しいことをする人が幸せになれ、道徳的に不正な人は必ず人生を失敗する」なら、そもそもその人はまず最初の「女性と付き合う」のところから失敗するのではないか。しかし、彼は実際たくさんの女性と付き合っているのだ。最終的に人間関係ぐちゃぐちゃになってトラブってるけど、少なくとも付き合うまでは問題なく達成できているのだ。例えばブラック企業を経営する人は、少なくとも「起業して、社長になって、そこそこ経営できている」までは成功しているのだ。その後、何かがきっかけでブラック会社だということが判明すると、社会的に非難されるけど、未だに非難されずにそこそこ経営できているブラック企業もたくさんあることだろう。
なぜ悪いことをする人のほうがそこそこ成功するのか。なぜなら悪こそが力だからだ。善の力など、悪の圧倒的な力の前には無力なのだ。善人は悪の前に屈するが良い!!
というのは冗談で、つまり彼らは目的を設定したから、その目的を達成できたのではないかということだ。例えば女を弄ぶ男は「女の子といちゃいちゃしたい」という目的を設定し、その目的を達成する努力をしたから、いろいろな女性と付き合えることができるようになったのだ。例えばブラック企業経営者は「社長になって金を稼ぎたい」という目的を設定し、その目的を達成する努力をしたから、企業経営者になれたのだ。ブラックだけど。私達がなぜそう簡単に企業経営者になれなかったり、異性といちゃいちゃできないかというと、私達はそもそもそれを目的にしたことがない。それを目的にしたことがないから、そのための努力もしたことがない。努力もしたことがないのに、突然異性といちゃいちゃできるわけないし、突然企業経営者になれるわけがない。ブラック企業経営者や、女性を弄んでいる彼らにはきちんと目的があるのだ。「○○がしたい」という欲望があるのだ。野心があるのだ。でも、私も、多分あなたもそれほど野心がない。だから何も目的にしていない。だから、そのための努力とかも特にしない。その結果、私達の人生はどこにも進まない。今日と同じような日が最後まで続く。そして死ぬ。
これは私の勝手な思い込みだけど、そもそも日本人は国民性として野心をあまり持たない人種なんじゃないかと思う。中国人と日本人の人間性を比較するのにこんな言葉がある。
「中国人は一人でいれば龍になる。三人集まると豚になる。日本人は一人でいると豚である。三人集まると龍になる」
この言葉の私の解釈を説明したい。中国人は一人だと龍になる、ということは、つまり中国人は一人ひとりがそれぞれ野心を持っているのだ。野望があるのだ。目的を持っているのだ。そして、目的を持っているということは、そのために何を努力すべきかがわかっている。そして彼らは実際に努力し、その目的を達成したりするのだろう。でも、三人集まれば豚になる、ということは三人がそれぞれに野心を持っているので、利害の衝突や、もしくは異なる目的を持っていたりして、全然チームプレーを発揮できず、お互いがお互いの足を引っ張り合うのだろう。日本の言葉で言えば「船頭多くして船山に登る」だ。
対して日本人の場合。一人のときは豚だということは、そもそも私達個人個人は、あまり欲望がないのだ。野心がないのだ。だから、特に目的もないのだ。だから、そのための努力とかも特にしないし、その結果私達は終始だらだらと生きるのだ。でも、三人集まれば龍になるということは、まず三人集められたということは、何らかの理由があってその三人が集められたということだ。つまり、その理由を達成するために三人は集められた。私達個人個人は別に野心を持っていないけど、目的さえ与えられれば、お互いに助け合いながら目的を達成することができるのだ。私達は足の引っ張り合いなどしないのだ。なぜなら、そもそも私達には野心がないので、足を引っ張り合う理由もないからだ。
私達日本人は、一言で言えば「人生に対してやる気がない」。中国人と日本人の比較で上記のような言葉があるということは、全員とは言わないけど、他国よりは多くの人が人生に対してやる気がないのだ。なんせそもそも滅私奉公の国だからね。「自分を殺して公に尽くすのが良い」という文化を持っていた国だからね。だから他国よりも犯罪が少ないのも、そもそも私達にあまり野心がないからだと思う。野心がないので「悪いことをしてでも目的を達成するぞ」という気持ちもないのだ。だって私達やる気ないし。
クラークさんの言葉、「少年よ、大志を抱け」は有名だけど、クラークさんはもっと深刻な気持ちを持って言ったのではないか。「へいへいへい日本人、もっと大志抱けよ!野心持てよ!野望持てよ!目的持てよ!目的さえ持てば、何を努力すればいいかが分かるし、何を努力すればいいか分かれば、実際に努力できるし、努力できたら、達成できるんやで!?」みたいに。ドイツのジョークに「最強の軍隊は、アメリカ人の将軍 ドイツ人の将校 日本人の下士官と兵」という言葉がある。つまり、私達日本人は、指揮官の能力は低いけど、目的達成の手足として行動するのは上手いのだ。つまり、目的設定は下手だけど、目的さえ設定できれば、それを達成する能力は、世界でも高い方だということだ。
ところで、ブラック企業を経営している彼らは、私達より能力が高いのだろうか?異性と付き合いまくっている彼らは、私達よりスペックが高いのだろうか?例えば学校で「ブラック企業の運営方法」という授業で学ぶことができたなら、私達は彼らよりも、もっとえげつなく労働者を酷使し、もっとえげつなく金を儲けることができると思う。例えば学校で「異性を弄ぶ方法」という授業で学ぶことができたなら、私達は彼らよりも、もっと多くの異性を翻弄し、もっと泥沼な人間関係を築けたと思う。目的設定さえすれば、私達は能力が低くてもそこそこ達成できるのでは?
もしかしてあなたはこう思うかもしれない。「いやいや、スペックが高い人は目的を達成できるかもしれないけど、スペックが低い私のような人間は目的を設定しても達成することはできない」と。日本の有名な戦略家シャア・アズナブルさんはこんな言葉を言っている。「モビルスーツの性能の違いが戦力の決定的差ではないと言うことを教えてやる」。たとえスペックが低いからと言って目的が達成できないというわけではない。例えば、私達が社長になりたいという目的を持ったとしよう。でも、ソフトバンクとかソニーとかいう大企業を作るのは無理かもしれない。例えば、社長のあなたと、社員五人みたいな小さな企業しかできないかもしれない。でも、それで十分じゃない?例えば「たくさんの女の子といちゃいちゃしたい」という目的を持ったとしよう。例えばジャニーズみたいに100人の女の子といちゃいちゃすることはできず、3人の女の子としかいちゃいちゃできなかったとしよう。でも、それで十分じゃない?
私達は自分のことを「目的を持たずに生きている」と錯覚しているけど、実は私達は無意識に目的を持って生きているのかもしれない。先程、道徳的観念を持った結果、ブラック企業で自殺した人の例を出したけど、つまり彼の目的は「道徳的に正しく生きる」だったのだ。そして彼は「道徳的に正しく生きる」という目的を最後まで達成するために「自殺する」という手段を行使したのだ。彼は自殺することで、死ぬまで道徳的に正しく生きることができたのだ。先程の、神様のために子供を捨てたオーストラリアの女性は、つまり目的を「神を信じる」として、その達成のために「子供を捨てる」という手段を行使したのだ。
あなたも明確には意識をしていないけど何らかの目的を持っていて、その目的の達成のために日夜努力しているかもしれない。例えばあなたの目的は「普通の人生を送る」なのかもしれない。あなたは「普通の人生を送る」という目的の達成のために、日夜あらゆる手段で努力しているのだ。なぜあなたが「普通の人生を送る」を目的としているのか。なぜなら「普通の人生を送る」が最も無難な生き方だからだ。本当に?
人間は見たいものを見ているのだ。あなたは「普通の人生が一番無難だ」という結論を既に自分の中で出していて、だから「普通の人生が一番無難である」という情報しか見ず、普通の人生が一番無難だと思いこんでいるのだ。あなたはきっと今まで普通の人生を歩んできたんだろうけど、本当に今までのあなたの人生はずっと無難だった?本当に?あなたが言うそのあなた自身の「普通の人生」のひとつひとつを良く良く思い出してみると、「死ぬほど辛い」とか「死ぬほど苦しい」とか「もう死にたい」とか、もしくは逆に「こいつ殺したい」みたいなことがあったはずだ。でも、あなたは、あなた自身が経験したそれらを全て忘れたふりしている。だってあなたは「普通の人生が一番無難」という結論にしたいからだ。
私から言わせてもらえば「普通の人生を送る」っていうのはかなりレベルの高い目的に見える。だって、たまに「死ぬほど辛い」とか「死ぬほど苦しい」とか「もう死にたい」みたいなことがある人生を、定年まで生きるからだ。でも、最近政府は「生涯現役」と言っている。つまり、今後定年制度は事実上廃止され、「普通の人生」とはつまり「死ぬまで働く人生」を送ることと同義になるかもしれない。そんなにレベルの高い目的、私には達成できない。だから、いま普通の人生を送っている皆さんは、多分かなりレベルの高い「目的達成能力」を有していると思う。
基本的に人間は目的さえ設定されれば、かなり高いレベルでそれを達成できると思う。例えばこの文章を読んでいる学生の皆さんは「ごめん、ちょっと世界を滅ぼしてくれる?」って言われても「そんなこと出来るわけがない」と思うかもしれないけど、学校から「はい。今回の宿題は『世界を滅ぼすこと』です。ちなみに、世界がきちんと滅びるまで、あなたをこの学校から卒業させません」って言われたら、きっと皆は「ちくしょうマジかよ」って思いながら、真面目に要人の暗殺、重要施設の破壊、民衆の扇動を行って、世界を滅ぼせると思う。例えばこの文章を読んでいる社会人の皆さんは「ごめん、砂漠を全部お花畑にしてくれる?」って言われても「そんなこと出来るわけがない」と思うかもしれないけど、会社から「世界の砂漠を全部花畑にしろ。これは業務命令だからな。できないとクビにする」って言われたら、きっと皆は「ちくしょうマジかよ」って思いながら、真面目に大学の研究機関との連携、砂漠を有する国の要人との折衝、資金の適切な分配を行って、砂漠をお花畑に変えられると思う。
例えば「経営者になる」という目的を作っても、小さい会社しか作れないかもしれない。「女の子といちゃいちゃする」という目的を作っても、ごくごく少数の女の子としかいちゃいちゃできないかもしれない。でも、レベルは低いとしても、達成すること自体は出来るのではないか。つまり、目的さえ設定すれば、人間はなんだって達成できるのではないか。私達は目指しさえすれば、なんだって出来る。
という極論を持った私は「目的さえ持てば、そのための努力しさえすれば何でも実現出来るのだとしたら、私は何を目的にして生きようか」と考えました。結果、こう結論を出しました。「やりたいことは特にない」。だって私も人生にやる気がない日本人だもの。
正直、なにを目的にすれば正解なのかまでは分からないけど、少なくとも目的設定は人生の攻略に重要な要素の一つだ。だって私達人間は目的さえ設定されれば、かなりのレベルでそれを達成できるのだから。どこかの聖書でも「求めよ、されば与えられん」っていうのがあるけど、これもつまり「○○をしたい」という目的を持って、それに対して頑張れば結構何でも実現できるよ、ってことを言ってるんじゃないだろうか。
だから今この文章を読んでいる「普通の人生を送る」という目的設定をしている人は、きっと本当に「普通の人生を送る」ことが出来ると思う。人間の目的達成能力は凄いから、たとえ「普通の人生を送る」過程で「死ぬような痛み」や「死ぬような苦しみ」や「死ぬまで働かないといけない」ということがあっても、あなたが「普通の人生を送る」を目的にしている限り、あらゆる困難を乗り越えて「普通の人生を送る」を達成するだろう。
その目的の善悪にかかわらず、目的を設定し、それを実現するための努力さえすれば、大抵の目的は達成できると思う。例えば「社長になる」を目的にしている人は社長になるし、「アイドルになる」を目的にしている人はアイドルになるし、「ヒーローになる」を目的にしている人はヒーローになるし、「世界を滅ぼす」を目的にしている人は世界を滅ぼすと思う。皆疑っているかもしれないけど、少なくとも私はそれくらい目的の力を信じてる。「その人がどのような人生を送るか」は、「その人がどのような目的を持って生きるか」で決まると思う。私もあなたも、多分私達自身が思っている以上に目的達成能力は高いと思う。なぜなら私達人間は目的さえ与えられれば、その目的達成のための手段として、自殺することも出来るし、子供を捨てることさえも出来るのだから。