生きづらい
アドラー心理学という、昨今そこそこ話題な心理学がある。「嫌われる勇気」という本が有名である。私もこの本を買って読んだんだけど、それほど感銘は受けなかった。父親はおおいに感銘を受けたそうだけど。感銘を受けていないので内容をあまり覚えていないが、うっすらした記憶で話そうと思う。アドラーさんによると、この世のすべての悩みは人間関係らしい。例えば私は仕事ができないけれど、そもそも周りに比較対象となる仕事が出来る人間がいなければ、私はこんなに悩まないのだ。例えば私の仕事を評価する上司がいなければ、私はこんなに苦痛を感じないのだ。
例えば勉強が苦手な子は、周りに勉強が出来る子がいるからこそ苦痛を感じるのだ。彼らと比較されて、自分は出来ない子だと判断されるから不幸なのだ。親にもぐちぐち言われるし。例えば運動が苦手な子は、チームでプレーするサッカーとか野球で、周りの皆に迷惑をかけるのが嫌なのだ。友達に「もっとちゃんとやれよ」とか言われるし。これが例えば、一切他者がいなければどうだろう。勉強をしても、不幸や苦痛はないのだ。だって、誰も自分より頭がいい人がいないのだもの。他者がいないということは、親もいないということだから、テストの点数に対して「良くない」とか「もっと頑張れ」とかぐちぐち言われなくて済むのだ。サッカーでゴールのシュートを外れても、友達に文句を言われなくて良いのだ。他者がいないもの。チームに迷惑をかけずに済むし、「もっとちゃんとやれよ」とも言われないのだ。
じゃあ、つまり、この世の不幸というものは、他者との関係性の中にあるのではないか。他人と関わるからこそ、不幸や苦痛が私を襲うのではないか。
ならば私はひきこもりたい。他者との関係性を断ちたい。一切コミュニケーションをとりたくない。孤独に仙人のように暮らしたい。なぜなら私は不幸や苦痛を感じたくないからだ。
しかし、社会から隔絶すると、きっと不幸になるのだ。孤独死するし。寂しさを感じることもあるだろう。他者とのつながりが不幸と苦痛の源泉なのに、他者との断絶もまた、不幸と苦痛の源泉というならば、私はどうすればよいのか。他者と関係を築くことが生きる上で大切なのであれば、人間の本能として、他者と関係を築くことに喜びを感じるように作っておいてくれればいいのに。
あなたはあなたというキャラクターを演じているという話。
小さい頃、幼稚園に通っていた方は、幼稚園でどんなことしてたか覚えてる?私はよく、幼稚園の皆で歌を歌っていたことを覚えている。ただ、幼稚園で歌を歌うということに関してはパターンがあって、まず先生が「今日は○○を歌います。皆で元気に歌いましょう」って言って、一番最初は、私を含めた幼稚園児の皆は、音程とかを取らずに、ただひたすら大きい声を出して歌うのだ。で、先生が苦笑して一旦ピアノを中断して、「もっとちゃんと歌いましょう」って言って、二回目以降に、皆で音程をとりつつ歌うのだ。
私は、幼稚園児の頃、子供の合唱団にも通っていた。この合唱団である日「皆、もっと元気に歌いましょう」って合唱の先生が言ったので、私は「あ、これ幼稚園パターンだ」って思ったのね。まず皆で音程を取らずに大声で歌って、先生が「もっとバランスよく歌いましょう」的なことを言って、二回目以降にちゃんと歌の練習するパターンや!って思ったのよ。
で、先生が「さん、はい」って歌を促したから、元気よくただの大声で歌い始めたら、そんなことしたのは私だけで、私以外の同年代の子は、始めからちゃんと音程をとって歌い始めてた。おかげで私は皆に笑われてしまった。この時私が気付いたのは「私は、幼稚園児を演じているんだ」っていうことだ。だって、幼稚園児の私も、その気になれば最初からある程度音程をとって歌うことが出来るのだから。そして、私だけでなく、合唱に通っていない幼稚園の友達皆も、本当はその気になれば、最初からある程度音程をとって歌えるのだ。だって、事実注意された二回目以降は普通に音程をとって歌い始めるもの。なのに、なぜ私達幼稚園児は、幼稚園で歌を歌うときに、最初に音程をとらずにただひたすら大声で歌うのか。なぜなら私達幼稚園児は、無意識に「そのようなことを期待されている。幼稚園児とはそのようなものであると認識されている」と思うからだ。そして、無意識に「その期待に、その空気感に応えなければ」と思うからだ。
私は幼稚園児の頃「幼稚園児」というキャラクターを演じていた。ならばきっと、その後私は小学生の頃は「小学生」を演じて、中学生の頃は「中学生」を演じて、その後も高校生、大学生、社会人を演じてきたのだ。
そしてこれは、社会で所属している準拠集団のみに関して演じているのではなく、個人個人に関してもまた、「その人」というキャラクターを演じているのだ。つまり、木村拓哉は木村拓哉という人間を演じているし、ドナルド・トランプはドナルド・トランプという人間を演じているし、そしてあなたは、あなたという人間を演じているのだ。
もちろん、あなたはあなたという人間を演じているという自覚はない。私も幼稚園児の頃は無自覚に幼稚園児を演じていて、合唱のエピソードでたまたまそれに気付いただけだ。だから、断言するけど、あなたはあなたという人間を無意識に演じている。
その証拠に、あなたは外で四つん這いで歩いたりしない。「そりゃそうだよ。そんな赤ちゃんみたいなことする人いないだろ」って思うでしょう。でも、別に法律で「外で四つん這いで歩いてはいけない」と禁止されているわけではない。だから、四つん這いで歩いたって特に問題ないじゃないか。それでもあなたは外で四つん這いで歩かないのだ。なぜならあなたは「外で四つん這いで歩くような人間ではない」キャラクターを演じているからだ。「いや、そもそも四つん這いで外で歩く人なんていないだろ」って思うかもしれないけど、お笑い芸人の江頭2:50さんとか、出川哲郎さんとかその気になれば四つん這いで歩けると思う。なぜなら江頭2;50さんとか出川さんは「外で四つん這いで歩いても良い」キャラクターを演じているからだ。
では、どうやってあなたは「あなた」というキャラクターを作ったのか。おそらく「外から期待されて作った自分」と「内から出てきた本来の自分」のブレンドで、現在のあなたというキャラクターが作られていると思う。そしてあなたは「きっと『内から出てきた本来の自分』の方が、現在の私というキャラクターを作る元となる比率が大きいだろう」と思ってると思う。でも、多分実際は現在あなたがあなたというキャラクターになったのは「外から期待されて作ったあなた」の部分の方が比率が大きいと思う。だって、幼稚園児すら、周りからの期待を無意識に感じ取って幼稚園児を演じているんだぜ?昔、確か心理学の実験で、人を囚人役と看守役に分けて、しばらく一緒に過ごさせるという有名な社会実験があった。お互い「そういう役を与えられているだけだ」ということを理解しているにもかかわらず、看守役は看守になりきりすぎて囚人に暴力をふるうようになり、囚人役は囚人になりきりすぎて暴力をふるう看守に抵抗しなくなっていき、結局実験は途中で中断された。つまり、その人がどのような人かというキャラクターを決めるのは、内から発する本来のあなたではなく、外からくる「あなたはきっとこのような人間である」という期待感、空気感である。つまり、今のあなたというキャラクターは本来のあなたではなく、期待と空気に応えるために人為的に無意識に作ったキャラクターである。
そして、今この文章を読んでいるあなたが、もし「生きづらい」と思っているなら、多分いまあなたが演じているあなたというキャラクターが、本来のあなたと合っていないんだと思う。うん、分かるよ。あなたは生まれてから今までずっとその性格だったんでしょ。でも、それはただ単に生まれてから今までずっとそういう性格のあなたを演じてきた、ということを意味するだけで、「生まれてから今までずっと私はこの性格だったから、本来の私もこの性格だ」ということは意味しない。だって、事実あなたは今生きづらいんでしょ?多分、この文章を読んでいる「生きづらい」と感じているあなたは性格が良いと思う。で、なぜあなたが性格が良いかというと、世間から「性格が良い人間になれ」という期待感、空気感に応えるためにあなたは性格が良い人間になったのだ。
「え?じゃあ私は犯罪を犯すとか悪いことをすれば生きづらくなくなるの?」ということではない。多分あなたが生きづらいのは「性格が良すぎるあなた」というキャラクターを演じているからだと思う。性格が良いを目指しすぎていて生きづらいんだと思う。だから、犯罪を犯すとかじゃなくて、多分、もっとあなたは性格をだらしなくしたほうが良い。もっとずるい人間になったり、さぼる人間になったり、わがままな人間になっていいと思う。なぜならその方が生きやすいから。あなたは今、多分良い人過ぎて生きるのが辛いのだ。いい人すぎるキャラクターを演じているので、内からくる本来のあなたが悲鳴をあげているのだ。だから生きるのが辛いのだ。
主張の精神か、譲り合いの精神かの話。
欧米は、どちらかといえば個人主義の国で、自分の意見は主張すべき、という文化です。一方の日本はどちらかといえば空気を読む国です。空気を読む、ということは、場を乱さない、つまり、あまり主張しない、和を大事にする、譲り合いの国です。で、なんとなく世界的に「主張する国のほうが優れてる」っていうことになってます。いわく「自分の考えを主張しないと、異文化と分かり合えないし、自分の利益を守れない」と。
でも、考えてみればお互いがお互いの意見を主張しあうと、絶対に争いが起きるんだよね。お互いが自己の利益を最大化するために主張しあうんだから、利害の対立は必ずあるんだよね。つまり「主張の精神」が世界のメジャーである間は、世界から戦争は無くならないんじゃないかと思う。
日本の徳川家康が基礎を作った江戸時代は、約300年間戦争が起きなかった。これは世界史的にも珍しいらしく、徳川家康は世界中の歴史研究家の間でそこそこ有名らしい。で、江戸時代になぜ戦争が起きなかったかって言うと、日本人の精神が「譲り合いの精神」だからじゃないかと思う。つまり、できるだけ争いを避ける、和を大事にする精神だから戦争が起きなかったんじゃないかと思う。
だから、今は世界は「主張の精神」がメジャーだけど、そのうち戦争の収集がつかなくなった400年後くらいに「やっぱ主張の精神はダメだわ。戦争起こるわ。譲り合いの精神になろう」って変わると思う。
つまり、今は400年かけた過渡期なんだよ。400年かけて「譲り合いの精神のほうが平和のためにはいいわ」って結論を出すための途中なんだよ。で、この過渡期の間は「主張の精神」と「譲り合いの精神」のどちらが強いかって言うと、残念ながら主張の精神のほうが強いんだよ。だって、一方は自己の利益のために主張するのに、もう一方は自己の利益を優先させないなら、主張する方の意見が通るに決まってるから。
だから、あなたは「人と争うの嫌だな」って思うかもしれないし、正直私もそう思うけど、でも主張しなさい。今は時代的に「主張の精神」が正しいから自己の利益のために主張しなさい。
バランスの話。空気を読むべきか、読まざるべきかの話。
基本的に、偏った人間とバランスの取れた人間なら、バランスの取れた人間の方が優れていると思う。明治維新での西郷隆盛や坂本龍馬は、日本という狭い範囲から見たら偏った考えの人間の過激な行動に見えるけど、世界という広い範囲から見れば、旧態依然の日本のままだと外国に侵略されるかもしれないので、世界とバランスを合わせるためのやむを得ない行動だったと思う。
会社でも、バランスの良い考え方の人は基本的に仕事もできるし。私も可能であればバランスの良い人間になりたかった。
今、世界にバランスの取れてる国は存在しない。資本主義国は貧富の差が広がってるし、社会主義国は独裁者が生まれるし、永続できそうな制度を持つ国が、現在世界のどこにもない。グローバリズムにうまく対応できている国はないし、少子高齢化にうまく対応できている国もないし、福祉を重視すると成長が犠牲になり、成長を重視すると福祉が犠牲になる。あいつら全員偏ってる。それを考えると300年持った徳川幕府はマジですげぇ。
世界中の国が全部偏っているのだとしたら、その中で個人がどれだけバランスを取ったとしてもそれがなんだ、って話ですよ。全体が偏っているのに、偏っている世界を前提としてバランスを取ったとして、それはバランスをとっていると言えるのだろうか。偏った世界を前提としてなんとかバランスのとった生き方をしようとしても、生きづらいのは当たり前じゃない?だってそもそも前提とする世界が間違ってるんだから。
世界が間違っているんだとしたら、空気を読んでその世界に合わせた生き方をしてもしょうがなくない?だって世界が間違ってるんだから。
例えば、この世界の法律も、制度も、仕組みも、義務も、その国そのものを維持継続するために存在するけど、そもそもその国が維持、継続不可能なのだから、法律も、制度も、仕組みも、義務も全部間違ってるのだ。
だから、最低限法律を守って、最低限他人に迷惑をかけなければ、あとは好きな生き方をしても良いんじゃないかと思う。どうせ世界が間違ってるんだから。働きたくなければ働かなければいいし、勉強したくなければ勉強しなければいいし、人と関わりたくなければ人とかかわらなければ良いと思う。世界の「正しいと言われている生き方」をしなくても良いんじゃないかと思う。だって世界がそもそも間違ってるんだから。
そりゃあ、こんな世界なんだから生きづらいのは当然じゃない?