公正世界でないのであればこの世界は何なのか
公正世界仮説というのがある。これは、この世界は公正であり、善を行う人には良い事が起こり、悪を行う人には悪い事が起こるというものの見方で世界を見ることだ。
でも公正世界仮説は実証実験から否定されている。
つまり現実的にはこの世界では善を行う人にも良い事と悪い事が起こり、悪を行う人にも良い事と悪い事が起こる。
私も昔は公正世界仮説を信じてたけど、もう今では公正世界仮説を信じてない。そういう意味では私は昔よりは現実主義者になったと思う。
今、私は「基本的にはこの世界はなんでもあり」という見方でこの世界を見ている。
善を行う人にも良い事と悪い事が起こる。悪を行う人にも良い事と悪い事が起こる。めちゃくちゃ努力した人が失敗することもあるし、全く努力していない人が成功することもある。善が誤解されることもあるし、悪が正当化されることもある。究極的には法律さえ守っていれば、何をしてもいいし、好きに生きていい。
では何でもありのこの世界でどうやって生きていけばいいのか。
この世界で何かを手に入れたいのであれば、まずは試行回数の問題である。
何かを手に入れることに挑戦する、目標を達成することに挑戦するのに、1回だけ挑戦するのと、10回挑戦するのであれば、10回挑戦した方が手に入れられる確率が高いのは当たり前だ。
だからもしあなたが何かを手に入れたり、何か達成したい目標があれば、単純に手に入れるための挑戦の量を増やすことだ。
そして何でもありのこの世界だけど、私は「練習の力、勉強の力、努力の力」を信じている。
練習しても成功するとは限らない。勉強しても成功するとは限らない。努力しても成功するとは限らない。それでも練習も勉強も努力も、成功する可能性をある程度は上げてくれるはずだ。
だから自分の「練習量、勉強量、努力量」を何にどれくらい配分するかで人生はある程度決まるのでは?という気がしている。
例えば子供の例で挙げれば、学校に通って、宿題して、サッカーの練習も好き、っていう男の子であれば、自分の「練習・勉強・努力エネルギー」を学校の勉強に何割か、宿題に何割か、サッカーの練習に何割か割り当てていることになる。そしてそれぞれにどれくらいの量を割り当てているかで、その子の性質や将来が決まる気がする。
公正世界仮説を信じていた昔は「それが善か悪か?」という考えが私の中の大事な要素だったけど、今は「自分の「練習・勉強・努力エネルギー」を何にどれだけ配分するのが最も自分の人生にとって良いか」という考え方が大事。と思ってる。