子供はなぜ親に怒られると死ぬほど泣くのか
最近、よく昔の事を思い出します。あれは、大学生時代――の前の高校生時代の前の中学生時代の前の小学生時代の前の幼稚園時代の前の幼児時代。
そう。最近なぜか幼児時代の事をよく思い出します。良く外で遊んだ後、足を洗うために親に抱っこされてお風呂場へ運んでもらう途中に、廊下の脇に置いてあるタオル置きのカゴにいつも足をぶつけられ、泣こうと思うけど泣くほどの事でもないし、親に訴えようと思うけど、なんせ4才くらいだからうまく言語化できないし。
みたいな思い出とか、「た」「ち」「つ」「て」「と」よりも「た」「てぃ」「とぅ」「て」「と」の方が発音的にナチュラルじゃね?って思ってたこととか。
でも、なんで最近突然こんな昔の事を思い出すようになったんだろう、と考えて、ある結論に至りました。
私はもうすぐ死にます。
人間って、死ぬ寸前に走馬灯の様に一生を思い出す、っていうじゃないですか。きっとそれです。
つまり、私はライフステージとして「死へ向かう」段階に入ったのだと思います。
ただ、まだ幼児時代の事しか思い出していないので、このペースで行くと多分40年後くらいに死にます。間違いない。
で、そんな幼児時代エピソードの一つに『親に怒られて死ぬほど泣く』と言うのがあります。
今は知的でクールな皆さんも、子供の頃は親に怒られるとワンワン泣いていたでしょう。親に怒られることが恐怖だったでしょう。
多分、皆さんは大人になると、なぜ自分が子供の頃に、親に怒られるというだけであれ程恐怖を感じて泣いていたのかを忘れてしまうのだと思います。でも、今現在まさに人生を走馬灯のように思いだし、40年後くらいに死ぬことが運命づけられている私は思い出しました。なぜ自分が親に怒られるとあれほど泣いていたのか。
それは、死を覚悟していたからです。私たちは皆、子供の頃、親に怒られると死を覚悟していました。
なぜなら、親という存在は自分の生殺与奪の権を握っているからです。親が怒ってその気になれば、明日から自分はご飯がもらえないことを知っていました。ご飯がもらえないと、私は死にます。親が怒ってその気になれば、私を家から追い出すことができます。家から追い出されると、私は一人で生きていけません。私は死にます。
もちろん、親は子供を怒るときに殺そうとまでは思っていません。牛乳をこぼした子供を殺そうとは思いませんし、壁に落書きした子供を殺そうとも思いません。ただ、ちょっと注意するつもりで怒るだけです。
ただし、その注意の一回、一回に、子供は死を覚悟しています。なぜなら、親がその気になれば自分を殺せる力を持っていることは、例え親が殺意をどんなに否定しても厳然とした事実として存在するから。
あ、ちなみに私は別に親に虐待されていません。普通の家の普通の親に普通に育てられました。現在の親との関係も良好です。
そう。思い出してください。普通の家庭で普通に育てられたあなたも子供の頃は、親に怒られている時に殺されるかもしれない恐怖を感じていたことを。
年を取るにつれて「あぁ、親は怒っても別に自分を殺すまでのことをするわけじゃないんだな」という事を経験的に学習し、子供は段々と親に怒られてもそこまで泣くことはなくなるのです。
そして、この過程において親と子の間で「殺意の有無」を明確に確認することは一度もありません。
「お母様。大変お怒りのご様子ですが、私を殺したい程の怒りでしょうか?」と聞く程、冷静に自分の内在的な意識を言語化できる幼児はいませんし、「段々と経験的に分かってきたのですが、お母様はお怒りになっても、私に殺意を抱いているわけでは無い、という認識でよろしいでしょうか?」と聞く小学生もいません。
なので、実は子供たちは心の奥底で死の恐怖を感じる事はあっても、明確に言語化して死を意識したことはない――つまり、大多数の人は自分が小さい頃に親に怒られた時に死ぬほどの恐怖を味わった事を忘れてしまうのです。
明確に殺されるという言語として意識したことが無いから。小さい頃はまだ「殺される」という言葉を知らないから。仮に知っていたとしても、自分が怒られている時の気持ちがその「殺されるかもしれない」という言葉とリンクする、と認識できてないから。
つまり、実は一般的に人間というのは人生において二度の期間、死を強く意識する期間がある。生まれた直後のほんの数年と、死ぬ前のほんの数年だ。
じゃあ、私のこの先の40年はなんなんだ。