ガルニモ

なお、この人生計画は予告なく変更される場合があります。

ネコ

2017年7月1日時点の人生計画

今日は、主には私の人生計画について書こうと思うけど、それに付随して色々書こうと思う。これを読み終わったあと、皆さんはこう思うでしょう。「長いから分けて書けよ」。私からの回答はこうです。「分けて書くのが面倒くさい」。

私の人生計画の話。文学ファイターで過去記事を読んだことがある人は知っていると思うけど、私は若いうちから早めにお金持ちになって、早いうちから働くのをやめて、遊んで暮らそうと考えている。ちなみに、夢物語とかじゃなくて、本気で狙っています。

これを読んでいる会社員の皆さんは、同僚に「なんかあいつ、飲みに誘っても来ないし、全然遊んでる様子もないし、趣味も持ってなさそうだし、実家ぐらしだし。もしかして、エグいほど貯金をためてるんじゃないの?」っていう奴がいると思います。そいつが私です。さらに、株式投資にも手を出して、アベノミクスでそこそこ儲けました。

でも、現実的に若いうちに会社をやめて、それ以降働かない(アーリーリタイアをする)ことに関して……つまり、他人とは違う生き方をすることに関して、ストレスや不安を感じるかについてを「変人という人」「ドロップアウト」「人生観」の三つを軸に話したいと思う。

まず、「変人という人」。

私は人によく「変わった性格だね」って言われる。私自身、人と変わった性格であることを自覚している。でも、冷静に考えると、本当に純粋に性格が変わった人であるなら……ナチュラル変人であるなら、自分自身が変わった性格であるという自覚すら無いんじゃないだろうか。そういう意味では、私はニセ変人なのかもしれない。

この文章を読んでいる皆さんの中にも、きっと変人はいると思う。でも、だいたい皆も、自分が変人であることは自覚しているよね?変人がなぜ「変人」という性格なのか。それは、ただ単に、その性格でいることが、自分が最も楽に感じる性格だからだ。当然これが、最大の理由なんだけど、実は私にはもうひとつサブの理由があって自分の「変人」という性格を相手とコミュニケーションを取るための手段の一つにも使ってる。変人であると、たまに変な発言や変な行動をしてしまって、人から笑われることがあるんだけど、正直そのことは全然苦痛じゃなくて、むしろそれで場がやわらかくなって、コミュニケーションが進めば、それはそれで全然構わない。例えば、関西人が自虐ネタを連発して笑いを取りつつ、相手と円滑にコミュニケーションを取るのと同じようなものだと思う。自虐ネタを連発する関西人の友達とかいないから知らんけど。だから、人に「変わってるね」って言われることは全然苦痛じゃないし、変な言動をして笑われることも、全く苦痛じゃない。だって私はそうやってコミュニケーションをとって生きてきたから。で、流石に変人の全員とは言わないけど、そこそこの人が私と同じように、自分が変であることを、コミュニケーションを円滑にすすめるための手段として使用していると思う。多分。しらんけど。

ただ、ネットとかでググってみると、たまに自身が人と変わった性格であることに、コンプレックスとして本気で悩んでいる人がいたりする。多分だけど、その人はその変わった性格のせいで、誰かにからかわれたりいじめられたりした経験があるのだと思う。私も学生の頃はどちらかというといじめられっ子の側だったけど、少なくとも「変わった性格であること」そのものを理由にしていじめられたことは無かった。単純に運が良かったと思う。というか、むしろ変わった性格であることを、いじめを避けるための手段として使用していた気がする。

私は中学の一、二年生の頃は学校が荒れてて、毎日生きるか死ぬかの気持ちで登校してた。私の一つ下の学年は学級崩壊していたし。ストレスで逆流性胃腸炎になったし。それでもなんとか生き延びて、中学三年で転校することになって、「今度はどれくらい荒れた学校なんだろう」ってビクビクしてたら、めっちゃ平和な学校で、天国のようだった。場所によって、ここまで環境が違うのかとびっくりした。荒れてた学校の頃は、同級生同士で互いに食うか食われるかの日々だったのに、転校先の同級生は皆優しくて、授業中に皆率先して手を上げるし、天国過ぎて泣きそうだった。

この経験から学んだことは「人間は平等では無い」ってことだ。例えば能力を元に通う学校が振り分けられるならまだ分かるけど、場所だけで通う学校が決められて、しかもその学校が荒れてるか平和かなんて、ほぼ運だ。人間の能力が反映される余地がない。生まれる場所によって、その時点で既にどのような人生を送るかがある程度決まってしまう。荒れている場所に生まれた人は、荒れた学校経験を通じて、この世は生きるか死ぬかなのだと学び、平和な場所に生まれた人は、平和な学校経験を通じて、この世は助け合う場所なのだと学ぶ。人生は生まれた時点で平等じゃない。

っていう考えを持ったまま、大学受験を突破しました。大学で英語が必修だったんだけど、何かの議題に対して英語で話し合うっていう授業があって、確か初めての授業だったと思うんだけど、テーマが「受験というシステムは公平なシステムか否か?」っていうやつだったのよ。もちろん私はどちらかというと公平ではないと思ってた。だって、既に生まれた時点で人は平等じゃないし、落ち着いた環境で勉強できるか、それとも勉強のほうじゃなくて、まず生き残る方にエネルギーを振り分けないといけないかは運だもの。でも、さすがに私のこの熱い思いを英語では語れない。でも、先生に指されてしまったので、私はまず「公平ではないと思う」って言って、自分の考えの簡易版を英語で話した。日本語訳すると、確かこんな感じのことを話したと思う。

「ここに二人の生徒がいる。二人は同じ能力を持っている。片方が、良い先生に恵まれ、もう片方が悪い(教え方が下手な)先生に教えられた。結果、片方は成績が上がり、もう片方は成績が上がらなかった。生徒が良い先生に教えてもらうことが出来るか、それとも悪い先生にあたってしまうかは、生徒の能力ではなく、運の問題である。だから、平等では無い」

こんな感じのことを話したのよ。そしたら、別の学生が当てられて、その人が言うには

「平等なシステムだと思う。受験というシステムは、『相対的には』平等だ」

って主張して、英語の先生は『相対的』っていう単語を英語で言えたことをやたら褒めたあと「納得できた?」って私に聞いてきて、「『相対的』を英語で言える奴と英語で討論して勝てるわけないな」と思って、「納得しました」って答えたけど、正直、未だにあんまり納得できてない。

この場合の「相対的」の使い方はあってるの?っていうか、そもそも「相対的」ってどういう意味だっけ?もちろん「受験以上になにか代替できる素晴らしい手段はあるか?」って聞かれると、無いから、その点に関してはごめんなさいだけど、「受験」というシステムを「公平である」と言い切られることには不満がある。

話がだいぶ脱線した。とりえず、私が「あの人変わってる人だね」って言われることに関しては、私は全然苦痛ではない。

次に「ドロップアウト」。

私は大学一年の頃、いろいろあって、一時「普通の人生ルート」をドロップアウトしたことがある。それまで「普通の人生」しか歩んできたことがなかったから「あれ、これはもう私の人生は終わったのかな」って思った。で、普通の人生をドロップアウトしてみて分かったことは別に普通の人生を歩まなくても、世界は終わらないし、人は生きていけるし、日々は過ぎ去っていくということだ。これを見ている人の中でも、受験浪人や留年で人生をドロップアウトしてしまうかもしれないと思った人はいると思う。でも、別に「普通の人生」と違う人生を送っても人はそれなりに生きていけるのだ。という人生経験を経た私は「じゃあ、別に普通の人と同じ人生を送らなくてもいいじゃん」と、その時思いました。その後、頑張って「普通の人生ルート」に戻ったけど、一旦「普通の人生ルートを抜けるとどんな感じか」っていうことは経験しているので、他の人と違う生き方をすることに関しては、あまり恐怖はない。

最後に私の「人生観」について。私の人生観は、以前我が人生観で書いたことがある。ちなみにこの人生観は、何かを参考にしたのではなく、私が人生をドロップアウトしていた頃に、私が辿り着いた人生観です。私がオリジナルです。アイアム起源。アイアムゴッド。今回は、この人生観と同じ内容を、別の言い回しで表現してみようと思います。ちなみに、言ってることは同じです。

例えば、人は誰でも最後に死にます。つまり、いくら大きい家を建てても、いくら大きい会社を作っても、いくらお金を稼いでも、基本的に全部無駄です。だって人間はいつか死ぬから。死後の世界に何も持っていけないから。この考え方から、「人生って基本的に無意味だな」という結論にいたり、「人生は死ぬまでの暇つぶし」という人生観を持っている人が多くいます。

でも、私は違う。私は、天国に持っていけるものがひとつだけあるんじゃないかと考えました。それは「思い出」です。「生きている間に、あんなことしたよ、こんなことがあったよ」っていう思い出は、天国へ行ったあとに、天国でできた友達と共有できるのではないかと思いました。つまり、私は人生の意味を考えた結果「人間は思い出を作るためにこの世に生まれた」という結論に至りました。

私は海外に行ったことがないので、詳しくは知らないのですが、海外旅行に行く際は、海外につくと入国審査官という人が、その国に来た人に「この国に来た目的」を尋ねるそうです。そして私達は「旅行だよ」「仕事だよ」って答えることで、はれてその国に入国できるのです。

であるならば。私達もこの世界に生まれる前に、「世界誕生審査官」の美人のお姉さんに「この世界に生まれる目的は?」って聞かれたと思うんですよ。で、私達はきっと答えたはずです。「思い出を作りに」。お姉さんは「楽しい思い出をたくさん作ってきてね!いってらっしゃーい!」と笑顔で私達を見送ってくれたと思うんですよ。分かります?私達はこの世界に楽しい思い出を作りに来たんです。つまり、「遊びに来た」んです。私達はこの世界で遊ぶために生まれたんです。

そして、この世界に遊びに来た私達は、4歳くらいから幼稚園や保育園に通いだし、その後義務教育でずっと勉強し続けて、その後死ぬまでずっと働き続けて、定年退職後に、もう遊ぶ体力も無い中で、ちょっとだけ遊んですぐ死ぬんです。ギャグかな?

例えば生物学的に考えると、人間には三大欲求があります。「睡眠欲」「食欲」「性欲」。そして、人生の意味は「思い出を作ること」。つまり、私の理解では、この世界の神様的には「寝て、食って、エロいことして、あとは適当に楽しい思い出作って死ねばいい」としか言っていません。つまり極論を言えば、「盗んではいけない」と言ってないし、「強姦をしてはいけない」と言ってないし、「殺してはいけない」とも言っていません。本当に神様が人間に対してこれらを禁止しているなら、本能に「盗みたくない欲」とか「強姦したくない欲」とか「殺したくない欲」とかを組み込んでるはずです。でも、組み込まれてない。じゃあ、神様的には盗みも強姦も殺しもオッケーじゃん。

ではなぜ私が盗みも強姦も殺しもしないのか。なぜなら私には「人生において楽しい思い出を作る権利」があるのと同様に、私以外の皆さんにも「人生において楽しい思い出を作る権利」があるからです。自分の権利を主張するなら、他人の権利も犯してはならない。可能な限り、誰にも不快な思いをさせてはいけない。だって皆、この世界に遊びに来たんだもの。

だから、私がお金を稼いでお金持ちになって会社をやめようとしているのは、「お金持ちになりたい」というよりは、「そもそも私達ってこの世界に遊びに来たんであって、働きに来たわけじゃないよね」って思いからだ。

私が会社を今すぐやめてニートになるのではなく、きちんとお金をためて親にも迷惑をかけないようにしてやめようとしているのは、親にも「人生において楽しい思い出を作る権利」があるからだ。私には親の「楽しい思い出を作る権利」を侵害するつもりはない。

今、一所懸命に働いている皆さんは、死んだあとに再度「世界誕生審査官」のお姉さんに会うことになると思うけど、その時皆さんはお姉さんにこう言われるのだ。「『楽しい思い出たくさん作ってくるね!』って言ってこの世界に生まれたから、てっきり楽しんでるものだと思って、ちょっと人生を覗いてみたら、40年間働き続けてて、正直ちょっとドン引きした」。やーい、お姉さんにドン引きされてやんのー!

つまり、この世界に生まれた理由をちゃんと理解しているのは、私くらいのもので、他の皆はもはや正気を失っているのだ。私だけが唯一まともなのだ。皆、学校や会社を理由に人生を楽しむことをサボっている中、私だけがきちんとマジメに人生を楽しもうとしているのだ。私は小さい頃からずっとマジメな子だったし、大人になってもずっとマジメだ。これを見ている「自称マジメ」な人は、所詮本当の意味ではマジメではないのだ。だって、どうせあなたは働いてるんでしょう。この世界でまともな人間は私だけだし、この世界でマジメな人間も私だけなのだ。

お分かりだろうか。私が会社をやめる理由が。私はそんじょそこらのただの無職ではない。哲学をもった無職だ。意識高い無職だ。普通の無職よりもタチが悪い無職だ。オッケー?

以上が私のアーリーリタイアへの思いだ。なお、これはただ単にアーリーリタイアへ向かう私の気持ちであって、私の人生計画ではない。ここから私の人生計画に関して話したい。

私は2020年に会社をやめてアーリーリタイア生活に入ろうと思ってる。つまり、あと3年働いてから会社をやめる予定だ。なぜ2020年なのかというと、単純にキリが良いからという理由と、東京オリンピックが開催される年だから、働かない状態になって家でじっくりオリンピックを見たいな、というのがある。が!2020年にやめようと思っている最大の理由は、今私、両親と一緒に関東で賃貸の一戸建てに住んでるんだけど、父親が既に定年済みで、多分いま延長雇用の期間で、2020年に父親の延長雇用が切れる予定で、その後両親は故郷の九州に帰ると言っているからだ。九州には、おばあちゃんが残してくれた家がある。つまり2020年になったら、私に「両親と一緒に九州に帰る」「人生で初めて一人暮らしをして働く」「人生で初めて一人暮らしをしてアーリーリタイア生活に入る」の3つの選択肢から選択しなければならないという強制イベントがあるからだ。

まず、そもそも私は働きたくないので2020年は会社をやめるタイミング的に色々と丁度いい。なので「人生で初めて一人暮らしをして働く」は無しだ。2020年をきっかけに会社をやめるのは確定だ。

次に「両親と一緒に九州に帰る」と「人生で初めて一人暮らしをしてアーリーリタイア生活に入る」のどちらを選ぶべきか。

私が会社をやめる理由として、大きな理由は「私の人生観に合っていないから」だけど、他の理由として確定している不幸を回避したい、というのがある。「このまま働いても、定年退職までただ家と会社を往復するだけの無意味な人生を送って、その後孤独死する」が明確に見えてる。私は不幸な人生を送りたくない。

「両親と一緒に九州に帰る」と「人生で初めて一人暮らしをしてアーリーリタイア生活に入る」のどちらを選ぶと『より不幸になってしまうか』という観点から考えると、「両親と一緒に九州に帰る」の方がより不幸になりそうである。精神的にいつまでも自立できなくなって、いつまでも両親に依存し、両親が先に死んだあと、孤独に死ぬ。そんなの嫌だ。

というわけで、2020年になったら、人生で初めて一人暮らしをしようと思う。30代で初めての一人暮らし。「遅いな!」ってツッコまれそうだけど、何事も始めるに遅すぎるということはないのだよ。

さて――私の人生観にのっとるのであれば、私は会社をやめたあと、できれば色々旅行したり、映画や演劇を見たり、音楽を聞いたりするべきだと思う。思い出を作るために。しかし、現実的に考えて、ここに一つの大きな問題がある。私は根っからのインドア派だということだ。

今、皆さんは「そこが問題なの!?」って思われてるかもしれないけど、そこが問題だよ。ワタシ的には大問題だよ。そもそも私、なんでこんなにお金を貯められてるかというと、そもそもインドア派で全然お金を使わないからなんだよね。家が大好き。しかも多分、皆でいるよりも一人でいるほうが好きなんだよね。

昔、一回だけ「今日はなんか一日が充実してたわー」って自然とつぶやいたことがあるんだけど、どういう一日だったかというと、両親が出かけて私と犬だけが家にいて、テレビもつけないで本を読んだりパソコンしたりして、ただただ静かに一日を過ごした。正直、満足感が高かったよ。なんて贅沢な一日だろう、って思った。

そんなインドア派エリートの私が会社をやめて本能の赴くままに一人暮らしをするとどうなるか?多分、社会との接点が切れる気がする。つまり私、孤高の人になってしまいそう。仙人になってしまいそう。いや、私自身が「孤高になりたい」「仙人になりたい」って思ってたらいいよ?でも私の目的は「人生楽しんで思い出たくさん作りたいな」であって、「孤高になりたい」とか「仙人になりたい」とか無いのよ。

更に、アーリーリタイア後に、そもそも膨大な時間を何するか?っていうのがある。旅行や映画もいいけど本当にそれだけでいいの?本当にそれだけで時間潰せるの?

しかし、そこは常に未来を見据える私。ちゃんと今から何をして人生を生きていくかは、一応ほぼほぼ決めました。ただ、それと「そもそも楽しい人生を送れるか」は別問題です。特に、孤独死は可能であれば避けたい。で「孤独死を回避するためのあらゆる人生シミュレーション」をしたけど正直孤独死を回避できない。私、高確率で孤独死する。回避する手段が無いんですけど。助けて……。

実は、ひとつだけ孤独死を回避する方法がある。結婚すればよいのだ。思い出を作るのも、一人で人生の思い出を作るよりも、二人で人生の思い出を作ったほうがきっと楽しい。しかし、どう計算しても結婚できないのだ。確かに私、一応変人とはいえ他人とコミュニケーションは取れるけど、そもそもコミュ障だし、しかも会社辞めたら私は無職。無職のコミュ障と結婚したいと誰か思うか?誰も思わないよ!よしんば私が「お金持ちだよ」ってアピールしたとしよう。女性の皆さんは想像して欲しい。目の前に、無職のコミュ障が「お金は持ってる」とか言い出した時のことを。こいつただのヤバイやつである。

つまり、私の人生は生まれた時から既に詰んでいたとしか思えない。私の人生にハッピーエンドは用意されていなかったのだ。バッドエンドオンリー。でも、ここまで私は頑張ってよく生きたと思う。

正義と道徳はハッピーエンドを保証しないという記事で、「強さ」の話をしたけれど、私なりに「強さ」とは具体的に何か、というのを定義したいと思う。

「強さ」とは「ワガママを実現できる能力」のことだと思う。カッコイイ言い方をすれば「自分の思い通りの状況を作り出す能力」のことだ。

ということは、目の前に「遊ぶのを我慢してずっと勉強している東大生」と「駄々をこねて母親にお菓子を買ってもらった幼児」の二人がいたとしたら、幼児の方が社会的強者だということだ。なぜなら、幼児の方が自分のワガママを実現できる能力があり、東大生にはワガママを実現する能力がないからだ。この見方をすれば、確かに「頭の良さ」や「コミュニケーション能力」は、強さに利用するための武器、つまり「ワガママを実現する」ための武器として利用できるけど、強さそのものではないのだ。逆に言えば、「頭が悪いのに強い」とか「コミュ障なのに強い」ということも、充分にありえる。

幼児とか、大人より頭は悪いし、力も弱い。なのに「守ってあげたい」という存在であるというだけで、ワガママを実現させる能力がある。強さがある。

私がずっと自分のことを社会的弱者だと思っていたのは、たぶん人生でそれまでワガママを言ったことが無かったからだ。ワガママを言うようになってびっくりしたことは、ワガママは別に言っても良いということだ。理由がきちんとしているなら、ワガママは充分に通ることがあるし、誰にも迷惑をかけないなら、あらゆるワガママを実現してしまって良いのだ。

多分世の中には一人でいる場合にしか実現できない強さ(ワガママ)があるし、逆にチームでしか実現できない強さ(ワガママ)もあるのだ。そして、多分私は人生を個人プレーでプレーする限りにおいては、それほど弱者ではないのではないかと最近思ってる。なぜなら、そこそこワガママを実現する力があるからだ。

個人プレーで人生をプレーする限りにおいては私はそこそこ強者だけど、人生をチームプレーでする分においては、私はまだまだ弱者なのだ。そして孤独死から逃れることは出来ないのだ。

2020年から、私は一人暮らしをする。最近は「そもそも私、どこで一人暮らしをする?」っていうことをずっと考えてる。多分普通は、自分が通勤する会社や、通学する学校を軸として、「通勤・通学範囲」で、あとは「駅が近いところ」とか「治安がいいところ」とかを判断材料に住むところを決めるのだろう。でも、私はもう働かないのだ。制限が無いのだ。その気になれば海外にだって住める。

でも、人生で初めての一人暮らしでいきなり海外はハードルが高い。そもそも現実的に考えて住民票のなんやかんやが面倒くさそう。というわけで、日本に住むことは決めてるんだけど、日本と一言で言っても47都道府県ある。このなかからどこに住めば私は幸せに生きていけるのだろう。

この話の中盤「人生は平等じゃない」の話の中で、「人間がどこで生まれるかという時点で、そもそもどんな人生を送るかが大体決まってしまう」という話をした。人生においては「場所」も重要な要素なのだ。つまり、私がどこに住むかを決めた途端に、私の人生の大部分もまた決まってしまうのではないだろうか。どれを選択するかによって、めっちゃ幸福になったり、逆にめっちゃ不幸になったりするんじゃないだろうか。なにそれ怖い。

どこで暮らすかによって、私の運命が大きく変わる。そして、どこにも「これが正解だよ」って明示されていないのだ。すごく怖い。できれば「選択しない」を選択したいけど「選択しない」という選択肢はなく、そして選んだ選択肢によっては私は死ぬのだ。さらに、例えばある県に住むと決めても、具体的にその県内のどこに住むかで、また私の運命は変わるのだ。選択肢が無限にありすぎやろ。

まず私、今関東に住んでるんだけど、なんとなく「関東を離れたいな」っていう思いがある。今、この文章を読んでる中学生の少年少女は同意してくれると思うんだけど、なんとなく「昔の自分を知っている知人と会いたくない」みたいな気持ちない?私、その気持ちを未だにちょっと持ってるんだよね。なんだろうね、この気持ち。精神医学的に意味があると思うんだけど。というわけで「自分と縁もゆかりも無い場所に住んでみたいな」っていう欲がちょっとある。「過去の自分のことを誰も知らない場所に住んでみたいな」っていう思いが。

ただ、現実的に考えて会社やめるとめっちゃ時間が有り余ると思うんだよね。遊んで時間をつぶすことを考えると、東京から距離的に離れるのは良くないだろうか……。日本で一番遊べる場所は東京だと思うし。って親に相談したら、母が言いました。「え?あんたが……遊ぶ……?」確かに!私、遊ばないかも!現に今もあんまり遊んでないし!本屋があればそれで充分だし!というわけで、関東から離れよう。大体、東京近辺は働いたり遊んだりするための場所で、住むための場所じゃないよ。たぶん。人多すぎだよ。

まずベタだけど、福岡県(の博多)と北海道(の札幌)を一番最初に考えました。めちゃくちゃ住みやすいと評判の良い代表格!なお、この二大都市が美女がたくさんいるので有名というのはたまたまです。だってどうせ私、孤独死するもの。どうせ最後はバッドエンドだもの。ただ、両都市とも住みやすさで甲乙つけがたい感じなんですよね。「食べ物が何でも美味しいよ!」両方な!「よそ者もバンバン受け入れるよ!」両方な!「家賃もめっちゃ安いよ!」両方な!

つまりこれは、あわよくば「明るくてノリが良い女の子(博多)」と付き合うか、あわよくば「色白でおとなしい女の子(札幌)」と付き合うか、どちらの女の子と付き合いたいか。そういう問題だと思う。大丈夫、私は孤独死する。分かってる。問題はどっちの女の子が好みかということだけど、男性なら全員同意してくれると思うけど、正直どっちも大好きだよね。くそっ、どちらの美女も魅力的だ!両方欲しい!大丈夫。理解してる。私孤独死する。

っていうか、福岡の最大の弱点は治安の悪さで、北海道の最大の弱点は冬の雪が殺人的ってことだよ。なんなの美女たち?なんでそんなとこに住んでるの?あれなの?あなたは竜王を倒さないと出会うことのできないお姫様なの?美女を手に入れるためには、それと同等の対価が必要なの?治安リスクを受け入れないと博多美女と出会えないし、雪リスクを受け入れないと札幌美女と出会えないの?等価交換の法則なの?今後はこの二都市を「錬金術師の二大都市」と名付けよう。

できれば治安リスクは取りたくない。だって私、金持ちの世間知らずだもの。金持ちの世間知らずを世の中では「カモ」という。カモの私が治安が悪い福岡で一人暮らしとか……!殺されて、埋められたり博多湾に流されたりする未来しか見えない。じゃあ札幌かっていうと、札幌の雪はなめてかかると死ぬらしい。初めての一人暮らしが、最強の雪国、札幌ってちょっとレベル高すぎないだろうか。じゃあ、札幌もやめたほうが良いの?私、実は車の免許を持っていないんです。そして、できれば今後も車を運転しない人生を送りたい。つまり、車がなくても生きていける場所で生活したい。この時点で住める場所がかなり限定されるのです。福岡と札幌は車なしでも暮らしていけそうなんだけどな。治安リスクと雪リスクさえなければ……!くそっ!他に美女が住んでいる街はないのか!?

「京都や大阪はだめなの?」って思うかもしれないけど、京都や大阪って、空気を読めない人を「悪・即・斬」の精神で殺すじゃん?私、空気を読めない自覚があるから、京都や大阪は旅行に行くのは良いけど、実際に住むとなると、一日目で殺されそうだからやめとこうと思って。

でも、そうすると、もうどこに住めば良いかわからなくなるよね。というわけで私は「住みやすさランキング」的な本を色々買って読みました。一番良かった本は『本当に住んで幸せな街 全国「官能都市」ランキング (光文社新書) 』ですね。私みたいに、「どこに住んでもいいけどどこに住もうかな」って人はぜひ買ってみてください。

特にこの本はある程度車がなくても生きていける場所が分かる。この本も参考にしつつ、ガチで探しました。

まず、長崎は車を持っている人がほとんどいないらしい。坂ばかりで、狭い道も多いのかな?車を持っていない人のほうが多い!私いけるんじゃない!?って思って情報を集めたら「坂さえなければ良い街なんだけどねー」「坂さえなければねー」「坂が殺人的だからねー」「坂が殺しに来た」そんなに!?そんなに坂エグいの?そうなの?長崎は男女比のバランスが崩れてて女性のほうが余ってるのに。大丈夫。分かってる。私は結婚できない。

熊本もいいよね。九州第二の都市。車無くても生活できそう。くまモンもいるし。馬刺しが有名らしい。私、馬刺し好きだし。ただ、問題は「そもそも九州住むってどうよ?」って話がある。熊本には私の知り合いはいないけど、そもそもうちの家族の故郷は九州だ。私も九州に住むとなると、親戚とそこそこ住む場所が近い。つまり、「親戚の集まりイベント」が発生すると、私は強制参加しないといけなくなるんじゃないだろうか。なにそれ怖い。そもそも九州に住むべきじゃないかもしれない。くそっ熊本は美女も多いっていう情報があるのに!

石川県金沢市も住みやすいそうだ。車無くても一応生きていけるらしい。というかぶっちゃけ実は東京を抜かした地方都市の中では「石川県金沢市がもっとも良い」って『本当に住んで幸せな街 全国「官能都市」ランキング (光文社新書) 』に書いてた。じゃあ金沢市で良いじゃないか!って情報を集めたら「ただし晴れという天気がない」「晴れない」「絶対に晴れない」「晴れという概念が存在しない」そんなに?そんなに毎日曇りか雨なの?そうなの?日本海側ってそうなの?くそっ!湿度が高いから、女性の肌がピチピチっていう情報があったのに!

というわけで最近は仙台市が良いかなって考えてる。このサイトを見てる人の中には、仙台に住んでる人もいると思うけど、どう?住みやすい?牛タンが有名だそうだ。北の方だけど、雪もあんまり降らないらしい。街もそこそこコンパクトにまとまってて、車無くても生活できるらしい。じゃあ仙台でいいじゃねぇか!なお、仙台の女の子はおっぱいが大きいらしい。

大体推測できてると思うけど、私は結婚を諦めてない。人生とはつまり、運命に抵抗することに意味があるのだ。学生時代は、私が将来ワガママを言える人間になれるとは思ってなかった。でも今は言える。ワガママを言えるようになって、人生がすごく楽になった。しかもワガママをそこそこ実現する力もあるし。ならば私はお金持ちになったあと、今度は最高の彼女を作って頑張って結婚まで持って行こう。職業が無職なので、お見合いとかに申し込めないから、マジで自力で女性と出会うところから始めないといけないけど、マジで自力で女性と出会うところから始めてやる。そして仲良くなって結婚して、幸せな家庭を築いて、幸せな一生を送ってやる。私だけがまともなこの世界で、私だけがマジメなこの世界で、どうして私だけ不幸になることを受け入れないといけないのか。私は人生をあきらめない。バッドエンドの運命なんてひねりつぶしてくれるわ。

人生の攻略方法は、つまり目的を持つことだ。私はお金持ちになることを目的とし、あらゆる作戦、計画、謀略、策略を繰り返し、お金持ちになりつつある。では、お金持ちになったあと、今度は結婚することを目的とし、あらゆる作戦、計画、謀略、策略を繰り返し、最高の女の子と結婚をしよう。結婚後は、二人仲良く楽しい人生を送ることを目的とし、あらゆる作戦、計画、謀略、策略を繰り返し、幸せな人生を送ろう。

私はきっと幸せになるだろう。だって私は人生の目的は「楽しく生きること」だと明確に理解しているし、そのための行動もやっているもの。そしてこれを見ているあなたは、私と違って永遠に今日と変わらない人生を送ると思う。なぜならあなたは人生の目的を「今日と同じ日を生きること」だと誤って認識しているし、今日と同じ日を送るための行動しかしていないもの。

だってこの世界に、まとな人間はもはや私くらいしかいないし、あなたは既に正気を失っているもの。