ガルニモ

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意思決定を補助するツールは人を幸せにしない

前回、意思決定を補助するAIは人を幸せにするという記事を書いた。そして、今回私は「意思決定を補助するツールは人を幸せにしない」という結論をくだした。私が一体どこで間違っていたかの話をしよう。

前回の記事で「文庫 データの見えざる手:ウエアラブルセンサが明かす人間・組織・社会の法則 (草思社文庫)」という本を紹介した。

この本の中に「人間は、自ら積極的に行動を起こすことに幸せを感じる」「行動の結果が成功したか失敗したかは関係がない」「行動を起こすこと自体が幸せである」という記述がある。そして私は前回の記事で「個人的には『行動』という言葉だと語弊があると思っていて『行動』というよりも『自分の人生を主体的に決めて生きる』ことに幸せを感じる気がする」と書いた。これらの認識には今も誤りは無いと思っている。

また、前回の記事で私は趣味でタロット占いを始めたことを記述し、それに合わせて「タロットカードは意思決定を補助するためのツールになるよ」と論理展開した。タロットカードには観念的な意味しか無く、それに対して具体的にどう意味づけするのかは、タロットカードを占っている人自身に委ねられていること。また、その結果、占っている人自身が無意識にうっすら思っていることがタロットカードによってクリアになる……つまり、意思決定の補助ツールになるよ、と主張した。この主張にも今も誤りはないと思っている。

では、どこに誤りがあったのか?「もし人を幸せにするAIがあるとすれば、それは人間の代わりに全てを決めるAIではなく、人間の意思決定を補助するAIだろう」という主張である。この主張は誤りだと思う。そして、前回の記事を冷静に読んでほしいんだけど、この主張は私がしているのではなくて、「文庫 データの見えざる手:ウエアラブルセンサが明かす人間・組織・社会の法則 (草思社文庫)」の著者が仮説として主張しているのだ。

つまり、悪いのは私ではなく、「文庫 データの見えざる手:ウエアラブルセンサが明かす人間・組織・社会の法則 (草思社文庫)」の著者である。

ただし、「文庫 データの見えざる手:ウエアラブルセンサが明かす人間・組織・社会の法則 (草思社文庫)」の著者にも同情すべき点がある。なぜなら彼は「実際にこの世に既に人間の意思決定を補助するツールがある」とは知らなかったので、実際にそれが存在するとどうなるかが分からず、想像することしかできなかったからだ。また、論理展開としても「人間は自ら主体的に行動して人生を切り開くと、幸せを感じるという事実があるぞ?ということは、もし人間を幸せにするAIが開発されるとすれば、それは人間の意思決定を補助するAIだという仮説が考えられるぞ」という論理展開はとても自然だし。つまり、彼は悪くないのだ。悪意などなかったのだ。ここに悪人などいない。みんなそれぞれにベストを尽くした。

というわけで、なぜ「人が自ら主体的に行動して人生を切り開く」が正しく、「タロットカードは意思決定を補助するツールになるよ」も正しいのに、「意思決定を補助するツールは人を幸せにするよ」は間違いなのか。それを説明したい。

一言で言えば「人間は意思決定を補助されると、その決定に対して主体性を感じなくなるから」だ。

人間が幸せを感じるのに大事なのは「行動すること」ではなくて「【主体的に】行動すること」なのだ。「意思決定をすること」なのではなくて「【主体的に】意思決定をすること」なのだ。

「タロットカード」を使えば、とりあえずの意思決定はできる。でも、これは「楽に」意思決定をするツールにはなるけれど、「主体的に」意思決定をするツールにはならない。たとえば何か人生の大事な選択肢を主体的に決めて、そしてそれが失敗した場合は「あー、失敗した。でも、自分なりにめちゃくちゃ悩んで決めたことだから後悔無いわ」って思えると思うし、人間の幸せは結果の成功失敗ではなく、主体的に行動することなので、幸福度も悪くないと思う。でも、もしタロットカードで人生の大事な選択肢を決めて、そして失敗したなら、その失敗をタロットカードのせいにすると思うし、「人生の大事な選択肢をタロットカードなんかで決めるんじゃなかった」といつまでも後悔し、幸福度も低いと思う。

という話だよ。

意思決定の話をしよう。

スティーブ・ジョブズさんを知っているだろうか。もう亡くなられたけど、Appleの会社を立て直して偉大な会社にしたことで有名だ。そして、ジョブズさんが「今日はどの服を着るか」の意思決定にエネルギーを使うのを嫌がって、同じデザインの服を何着も持ち、毎日同じスタイルの服を着ていたのは有名だ。そして科学的にも、実際に人間は何らかの意思決定を行うときにはエネルギーを使っていることが判明している。

そして、意思決定のもうひとつ面倒くさい点としては「もし自らの力で意思決定をして、結果失敗したら、失敗した責任が全て自分にある」ということである。

なので、実は人間は基本的に意思決定を極力回避しようとする生き物なんじゃないだろうか。エネルギー使うし。失敗したら責任持たないといけないし。

7つの習慣」っていう成功哲学に関する有名な本がある。この中で幸せな人生を送るための7つの習慣が紹介されているんだけど、その中の一つに「主体性をもって生きること」というのがある。これはつまり「自分の力で自分の人生を切り開くこと」「自分の人生を主体的に意思決定すること」を意味するんだけど、わざわざ習慣の一つとして「主体性をもって生きること」を明記するということは、そもそもほとんどの人が主体性をもって生きて行けていないんじゃないだろうか。自分の人生を主体性をもって意思決定することができていないんじゃないだろうか。

例えばタロット占いにはまって頻繁に占ってもらう人がいるけれど、彼らは占ってもらうことよりも「自分の人生の選択の責任を自分で持つのではなく誰かに委ねたい」と思っているのではないだろうか。だって失敗するのが怖いから。失敗したら自分の責任ではなくタロット占い師のせいにできるし。

政治家や経営者の中にも占いにはまって頻繁に占い師に相談に行く人がいる、っていう噂を時々聞くけど、その政治家や経営者は、多分自分で意思決定をすることに疲れたんだと思う。自分の意思決定一つで国益が損なわれたり、会社が倒産したりするのだから、意思決定の一つ一つにかなりのエネルギーを使うと思うし、失敗したら取り返しがつかないというストレスもかなりのものだと思う。だから占い師を頼るのだ。

占い師に関してググると、何人か占い師をやめた人のブログに辿り着くんだけど、その記事を読むと占い師を辞めた理由として「人に依存されることに疲れた」という理由が多い。

人間は意思決定を補助するツール(タロットカードまたは占い師など)を手に入れると、意思決定の補助という位置に留めることができず、それどころか、意思決定をそれに依存するようになってしまうのだ。

意思決定の補助ツールは、結局「楽に」意思決定が出来る、までしか手伝うことができず、「主体的に」意思決定をすることを補助できないのだ。

ただし、人間は主体的に意思決定を行うことを回避しがちだけど、実際に研究結果として「主体性を持って意思決定をすると人は幸せを感じる」という事実があるのだ。

つまり、人間は「責任を回避できること」「楽に意思決定できること」が「幸せである」と勘違いしているのだ。「責任を持つこと」「いくら悩んでもいいので主体的に意思決定すること」こそが幸福の源泉なのに。

日本という国は幸福度が低い国、っていう研究結果があるけれど、その理由は文化的な側面……つまり「失敗を許容しないこと」にあると思う。特にアメリカだと失敗を許容する文化があるので、起業に挑戦する人も多くいるっていう話をよく聞くし。

日本って一度でも失敗した人を見ると「もうこの人は信用できないな」っていう結論をくだしがちじゃん?だから「意思決定に失敗した場合の責任を持つ」というリスクが諸外国に比べて大きいと思うんだよね。だからみんな主体的に意思決定を行うことを回避するんじゃないだろうか。だから日本の幸福度は低いんじゃないだろうか。

以上、メインの話は終わりで、以下個人的な話です。

「じゃあお前はタロットカードをやめたのか?」と聞かれると、全然やめてないし、今でもタロット占い楽しいよ。要するに、人生の大事な選択肢は自分で決めるべきだけど、人生のどうでもいいことはタロット占いで決めて良いのだ。でかける日の天気も占えるし、有名人の人生も占えるし、日本の行く末も占えるし、なんなら魔法少女プリキュアと私の相性すら占える。観念的なものに対して自分なりの解釈をするのはとても楽しい。クリエイティブな側面があると思う。親を占ったんだけど、カードを大量に使った占いをした結果を伝えると「占い結果を総合して伝えるのが下手」と言われた。確かに私自身も、カードを1枚や2枚や3枚くらいの占い結果の精度は高い気がするのに、カード枚数が多い占いになると占いの精度が落ちる気がする。これは、大量に配置されたカードのすべての絵柄の意味、配置場所の意味を自分の中で咀嚼解釈することができていないんだと思う。そして、観念的なものに対して自分なりの解釈を行うことって、想像力の訓練になると思う。

だから「私、趣味が特にないんだよな」っていう人はタロット占いを趣味にすると結構楽しいよ。人生の大事な選択はタロット占いに依存せず自分で決める事、っていう条件付きだけど。なによりググりまくったらタロット占い師はモテるらしい。モテるぞ?モテるんだぞ?モテる以外の理由なんていらないだろ?タロット占いを始めるんだ。モテる。